2020年3月15日(日)主日礼拝へのお招き

2020年3月15日(日)の主日礼拝にどうぞお出かけください。
どなたでもご参加いただけます。

【主日礼拝 】 10:30~12:00 
 ・聖書箇所: 創世記22章1~14節
 ・宣教題: 「神を恐れる」
 ・宣教者:   高田文彦師

録音は、こちら↓です。

https://yahoo.jp/box/GG3PP1

【夕礼拝 】  19:00~19:30 (高田文彦師)

【本日の礼拝宣教 】
    『神を恐れる』(創世記22章1~14節) 

 新型コロナウィルス(COVID-19)の感染拡大を受け.キリスト教界にも影響が広がっています。この礼拝もLINEで出席している人—またある人には.ZOOMやFacebookで音声を届けています。ある意味.礼拝も拡散している。しかし.散らされた神の民がココで1つとされている—とも言えます。この機会を通して.今日における〝礼拝観〟といものを深めることができれば—と思います。
 多くの教会で.教職や役員など.指導的立場にある人々は確実な正解がない中.悩みながらさまざまな判断をしているのではないでしょうか?言うまでもなく.みんなが納得・同意できるものをいつも打ち出すことはできない。だからと言って.何もしなければ.それは神の御心に反する。そのような意味で.今.教会は〝リーダーシップ〟が問われています。
 同時に.〝フォロワーシップ〟も問われています。つまり.労している人々のために祈り・支えていく働きです。両者がキリストの愛に動機づけられ.ともに歩んで行くという.今日における〝教会観〟も深められる機会となりますように。諸教会の平和のために祈りましょう。今日は月報が配られています。巻頭言でCOVID-19と教会についてふれているので.どうぞ目を通してください。
 さて.エペソ人への手紙の講解宣教をしていますが本日は予定を変更し.創世記22章から.『神を恐れる』という宣教題でみ言葉をとりつぎます。創世記は.アブラハムが登場する12章から本論に入る.と言ってもよいでしょう。神がアブラハムを選んで.人類に祝福をもたらす計画が展開していきます。
 相手を肯定し・祝福する言葉は人を生かします。逆に.相手を否定し・怒りに燃える言葉は人を殺します。神の言葉は前者。神の祝福の言葉はまずアブラハムにむけられました。アブラハムは順境のときも逆境のときも.神の祝福の言葉に信頼し続けた人。その点.アダムとエバは対照的。彼らは神の祝福の言葉を額面通りには受け入れなかった。ということは.私たちに幸いを与えるみ言葉を.信じるか信じないかで.私たちの生き方も変わるのでしょう。さぁ.アブラハムがひとり子イサクをささげたモリヤの山での出来事は.彼の神に対する信仰の最高峰であると言えそう。それにしても.「神は仰せられた。『あなたの子.あなたが愛しているひとり子イサクを連れてモリヤの地に行きなさい。そして.わたしがあなたに告げる一つの山の上で.彼を全焼のささげ物として献げなさい。』」という言葉は. 相手を肯定し・祝福して生かす言葉とはとても思えません。
 アブラハムは.妻サラに子どもが与えられるという神の祝福の言葉を信じ・待ち続けた人。実は途中.女奴隷ハガルによって子を得るという誤った行為に走ったこともあった。神を信じていても人には失敗や罪はある。そこからどのように回復されるのかが大切。アブラハムの信仰は守られ.アブラハムとサラは高齢ながら.約束の子イサクを授かることができたのです。子孫の繁栄の約束として.ついに与えられた子。神の祝福の言葉の実現。しかし.その子を全焼のささげ物として献げなければならない。つまり.殺すということ。
 「アブラハムは全焼のささげ物のための薪を取り.それを息子イサクに背負わせ」たと記されている。ヒトを焼き尽くすほどの薪ですから相当な量でしょう。それをイサク自ら背負った。イサクはリッパな体格をしていたのかもしれない。一方.アブラハムは100歳をこえた老人。イサクの方が力は上。しかし.縛られ刃物を突きつけられても.彼は父を信頼し抵抗しなかった。私たちはレント(受難節)を過ごしています。イサクの姿に.父なる神に従順に従われた.私たちの罪のために屠られた子羊・主イエスの受難の道が重なって見えます。
 さきほど.「モリヤの山での出来事は.彼の神に対する信仰の最高峰である」と言いました。同時に.モリヤの山での出来事はアブラハムにとって.最大の試練であったと言えます。人は試練に遭うと恐れる。それはひっくり返すと.試練のときに.日々何を最も大事にしているのか?というのが明らかになるということでもある。少し厳しい言い方をすると.試練のときにこそ.その人の本性があらわれるということではないでしょうか?
 アブラハムにとってイサクは宝もの。しかも.神の祝福の言葉が実体化した存在。でもアブラハムはイサクを屠ろうとした。イサクも大事ですが神はもっと大事。これもひっくり返すと.試練という恐れの中で.その恐れに翻弄されず.本当に恐れるべきお方である神を最も恐れていた(大事にしていた)ということです。アブラハムがイサクを屠ろうとしたとき.「『今わたしは.あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは自分の子.自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。』」—という声を彼は聞きます。ここに.ひとり子・十字架の主イエスを私たちのために惜しまれなかった.父なる神の愛が重なって見えます。
 世界は(あるいは私たちは).COVID-19という試練の中で恐れがないわけではない。それだけではない。その他にも日々さまざまな恐れに私たちは取り囲まれている。しかし.その恐れにのみこまれてはいけません。本当に恐れるべきお方.神を恐れる(大事にする)歩みが崩れることがありませんように。今日の宣教題.『神を恐れる』信仰が養われる機会へと変えられていきますように。
「アブラハムが目を上げて見ると.見よ.一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行ってその雄羊を取り.それを自分の息子の代わりに全焼のささげ物として献げた。アブラハムはその場所の名を.アドナイ・イルエと呼んだ。今日も.『主の山には備えがある』と言われている。」
 もしアブラハムが恐れに支配され山を下りていたら.角を藪に引っかけている雄羊を見ることはなかったでしょう。信仰の応答によって見れるものがある。試練を通して.信仰に新しいモノサシが加えられる。さまざまな試みの中で.OMF(国際福音宣教会)の建て上げに尽くした. J・オズワルド・サンダース先生の残した言葉が印象深く響いてきます。 「もし、私が夏しか知らなかったら、主の言われる「雪よりも白く」という意味が、どうしてわかっただろうか。 もし、輝きに満ちた日しかなかったら、美しい神の国に行き、「涙をぬぐい取って下さる」とどうして言えたであろうか。 もし、疲れることを知らなかったら、「その愛する者に眠りを与える」という御言葉を心に留めておくことができただろうか。 もし、自分の墓が無かったら、虚しい道ばかり追っていて、永遠の命を思わなかっただろう。 冬も、涙も、疲れも、墓さえも、私を祝福する神の道なのだ。私がそれを不幸と呼んだとしても、それはなお、私に生を示してくれ愛のほか何ものでもないのだ。」 この雄羊はアブラハムがそこに着く前から.すでに用意されていたものです。主の山には備えがある!もし私たちが恐れに心と生活を奪われ.進むべき道からソレてしまったら.神が用意しておられるものを見ることができないのではないか…。今週も神を恐れ.一歩一歩.信仰による応答の道を上っていきましょう。主の山には備えがあるのです!  アーメン。

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